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2012年3月 7日 (水)

思い出そうよ、手造りの心(その3)

 東京練馬は本日も今すぐ雨が降り出しそうな「超曇天」からはじまりましたが、ピンポイント予報見ると、朝から「どピーカン」とあるのだけれど・・・春先の天気は読みにくいというコトなのでしょうね。その後も晴れたり曇ったり、風も強かったですね。でも、春の訪れを感じる爽やかな風でした。

 さて、昨日は皆様から「助け舟」を出して頂きましたので、難しい「手造りの定義」を特に自動車という工業製品の世界ではどう考えていけばよろしいのかといったあたりにぼんやりと(笑)スポットをあててまいりましょう。

 この世の中の製品やサービスは、「本当に手造りのモノ」と「手造り風のモノ」と「完全無敵の量産品」と「その量産品に手造りの味付けをパラパラと降りかけたモノ」に分類できると、まずワタシは考えてみました。そうするとそれぞれの「境界線」はどういったコトになるのか、またまたアタマが痛い(笑)。

 また「素材の料理の仕方」や「材料の無駄を省き、歩留まりを良くする理念があるのか否か」などの部分も「心情的手造り感」の評価には大きく関わってくるものなのかもしれません。

 まず、昨日のコメントで「おぐ」さんからお示し頂いた「モーガン」という英国の古典的スポーツカーメーカーがあります。皆さんも名前はよく御存じだと思いますが、乗車経験のある方や、仔細にご覧になったコトのある方は少ないのではないかと推測いたします。

 おそらくは、現存するカーメーカーの中において、その質においても、量においても、実際の製品の品質においても、すべての点で「絶対的、総体的手造り感」のチャンピオンだと思います。

 このモーガンにおける「絶対的な手造り感」とは、誤解を恐れずに云えば「ある種のプリミティヴさ」と申しましょうか、ワタシの言葉で云い直せば「へぼカッチョ良さ(笑)」と云いましょうか、とにかく、(実際には、そんなに簡単なモノではありませんが)その辺にコロがっている部材をうまく組み合わせてなんとかクルマの形に造り上げたといった感じでしょうかね。

 同じく「総体的な手造り感」という云いまわしは、他の現行カーメーカーに比べて、モーガン社はどうなのかといったイメージで使っていますが、ワタシたちマイクロ・デポのお客さんの中に数年前コレの新車を購入された猛者(笑)がいらっしゃいますので、その時の逸話をちょっとおハナシいたしましょう。

 英国のモーガン社には、日本の正規ディーラーを通じて直接オーダーをします。数種類のエンジンや、ボディの仕様、外装色、室内トリム(革・ウッド)の選定、オプション装備の選択など細かく打ち合わせしつつオーダーするそうです。この方はワイドボディに強力なエンジン、エアコンももちろん装備、セキュリティさえある仕様でオーダーしました。外装色に関しては、ほぼ世界中に流通する色見本の中から自由に選べるらしく、フェラーリ用の「グリジオアロイ(薄ーいブルーメタ)」を指定しました。トップ(幌)も濃紺、カッチョいいにキマっています(笑)。とにかくセンスがいい。

 納車時には、「製造工程の写真アルバム」というのが添付されてきており、それを拝見いたしましたが、素晴らしいの一言。まずは、モーガン社の正門(といっても田舎の小学校みたいな感じですが:笑)の写真からはじまり、古びたいわゆるバックヤードビルダー然とした工場建物の写真へと続き、今度は実際にデリバリーされた現車そのものの製造工程の写真が順番に淡々と出てまいります。有名な木製フレームの製造からちゃんと見せてます。・・・スゴイです。すべての組み立て工程を「いわゆる馬」と「ガレージジャッキ」と「チェーンブロック」だけで勝負しているのです。工程自体も、コレはいきあたりばったりなんだろなーと思わずにはいられないほどのカオス(いや、そうするしかないのがワタシにはイタいほどよく分かる:笑)。クルマを上げたり下げたり、あっちをいじってはこっちを組み立てるといった体。とにかく全体的に少しずつ少しずつ、まさに匍匐前進でカタチになっていきます。

 こんな造り方をしたクルマが日本で1200万円だったそうです。それでもモーガン社の車としては考えられる「今様の」豪華装備を満載しての価格です。

 ・・・世界に一台だけの自分用のクルマをセミオーダーメイドで造ってくれる上、装備も充実、価格もリーズナブル、クラシカルなボディもエレガントで美しい。もちろん現代の路上でも充分実用足り得ます。もはやクルマ好きにとっては云うコトのないクルマではありませんか。にも関わらず、世界のカーマニア垂涎の的なのかというと、悲しいかな、必ずしもそうではありません。ここまでホメちぎっておいてナンですが、ワタシもきっと買うコトは無いでしょう(笑:だいたい買えんけど)。実際、この逸話のお客さんも10台以上クルマを持ってらっしゃる方なので、コレを新車でオーダーする心持ちにようやくいたったのだと思います。

 このモーガンの存在感の薄さ(クルマの魅力自体は、もう一度申しあげますが充分にあり、それは素晴らしいものです。決して誤解の無き様)は、考えますに「エンジンが自社製では無い」というところにその因のひとつがあるように思います。英国の少量生産スポーツカーメーカー(ヒーレー・ロータス・クーパー・ジネッタ・TVR・リライアントetc・・・)はおしなべてそうなんですけどね。もうひとつはあまりにも基本設計が旧いこと。然るにモーガン車、この現代にあっては「本当に手造りのモノ」カテゴリーに入れるべきクルマでありモノでしょうね。

 翻って、現在のフィアット旗下マセラティ。工場探訪記でもエンジンはフェラーリ社から送られて来るとはっきり明言しておりました。しかしながら、公式にはフェラーリ製エンジンとは決して謳われておりません。あくまでも(フェラーリを外注工場として製造した)マセラティエンジン搭載車として売られています。ランボルギーニ、アストンマーティン、ロールスロイス、ベントレー、錚々たる有名超高級車群も現在ではほとんど同様の成り立ちを持っています。「手造り風のモノ」カテゴリーに分類すべきがこのあたりのメーカーと云えましょう(フェラーリやブガッティ、マクラーレン、TVR、ぎりぎりロータスをも含めて)。

 ほかの銘柄はそれぞれの持つ「アドバルーン的フラッグシップモデル(コレは「手造り風のモノ」カテゴリーと云えましょう)」を除いて、すべて「量産車」といっても過言ではないでしょう。その中での少量生産モデルが「量産品に手造りの味付けをパラパラと降りかけたモノ」になっているコトが多く、そのまた一部は「手造り風のモノ」カテゴリーに属し、残りの大多数のモデルが「完全無敵の量産車」という部分に収斂されていきます。

 ・・・とここまで、ワタシなりの「パーソナルな感覚(要は独断ですな:笑)」に従って、ばっさばっさと4つに分類してしまいましたが、もちろん異論は大歓迎ですから、コメント欄にどうぞ。

 現今の自動車産業の製造工程においては、「手造り」という概念が狭義(本来の意味)のままでは、実に違いを抽出することが難しいというコトに想いいたりました。先にご紹介したモーガンなどのように、直接的に人が製造物に触り、組み立て調整をする部分が多い(その部分が多いか少ないかの線引きもどこで切るのかという問題が新たに浮上してくるけれど)のが、「手造りのクルマ」というコトになってしまいそうです。

 そういった意味では、もはやロードカーの世界では、狭義の手造り車は無くなってしまっているのかもしれません。フォーミュラーワンなどの一部競技車輛は基本的にワンオフ的な造りですから、ここまでいかないとダメなのね、きっと(そう考えるとモーガン安いよな:笑)。 

 ここで、はじめの方でおハナシしておいた「心情的手造り感」の評価というのが登場してくる必要が出てきます。

 先日、メルセデスベンツAMGの5.5リッターV8エンジンを目にしました。エンジンルームの真ん中には樹脂の大型カバー。その下にわずかながら覗くシリンダーヘッドは梨地仕上げでも無く、磨き上がられているわけでも無く、結晶塗装がされているわけでもなく、あたかも内装までコンクリート打ちっぱなしの部屋のようで無味乾燥な風景です。AMGのチューナーがいかに腕を奮っていたとしても、「あー、コレは丁寧にチューニングされたエンジンなんだよなー」といった感動や興奮がまったくありません。どーせエンジンルームなんか普段見ないし興味無いといった方々には、ハヤくて壊れなけりゃそれで良しといった感じなのでしょうけれど。

 その一方でビトルボ2.8以降のマセラティや360以降のフェラーリでは、エンジンルーム内にスペシャルな手造り感が充満しています。メカが好き、マシンが好きといった御仁にはコタえられない充実感があります。ひとつひとつの部材にいちいちひと手間が掛けてあります。性能や信頼性、いわんや整備性は二の次三の次です(笑)。コレが「素材の料理の仕方」の一例。「粋」か「無粋」かの勝負の分かれ目。「粋さ」をオシャレにキワめるには、無駄と無理とガマンの三つの要素が必ずや必要なのであります。

 世界最高峰の自動車を造っているということになっているのは、ロールスロイスとベントレーでしょう(マイバッハとかブガッティもあるけど、正直まったくワタシの眼中には入ってきません:笑)。どれもいまや「狭義の」手造り車カテゴリーには前述のように該当しませんね。いっけん、同じように木と革をふんだんに使用した内装を持ってはいますが、マセラティやフェラーリに使用されているレベルのものと、ロールスロイスに使用されているものは、その材料品質において、「大間産本マグロの大トロ」と「インド洋近海産カジキの中トロ」くらいの差があります(例えがわかりにくい:笑)。・・・いやそこまでの差は無いかな?インド洋マグロの中オチくらいかしら。「材料の無駄を省き、歩留まりを良くする理念があるのか否か」のハナシがこれにあたります。

 なぜ似てるのに質感が違うのか?牛の質が違うんですよ、まず。カラダの表面を覆っている皮革表面に一切キズの無いものを選び、厚みも使用箇所に応じて揃え、染色しているのがロールスが採用しているもの。イタ車用のは、それ以外(泣笑)。ウッドパネルにしても、ロールスロイスでは表面の柄を1台分の中で統一感が出るようにキチンと揃えられるよう、あまたあるパネルの中から選別して組み立てているのです。マセラティ?皆さんご存じですよね(まちまちですな、基本的に:笑)。

 でもね、完成度を上げ過ぎると、かえって「手造りの味」や「温もり」といった抽象的・感覚的に捉えるしかない世界からは遠いものになっていくものです。スゴイなとは思いますが、ここまでやらんでもというコトにもなります。数年前に現行のロールスロイスファントムを青山のコーンズさんで見せてもらい、中に乗ってみましたが、ちょっと踏めないよ、真っ白で毛足が10センチもあるカーペット(笑)は。もう、手造りの味とかは完全に超越してしまっていて、ただただスゴイんだけども、どんなに金持ちになってもワタシでは役不足。もっとも「粋」な世界のものではそもそもありませんのではじめから興味の対象外なんですけどね。

 現今のほとんどの高級車では、皮革内装トリムを謳っていても一部は巧妙に合皮を使用しているのが普通ですし、ウッドパネルもその多くは非常によく出来たフェイクです。おまけに触った質感や見た目だけで真贋を見分けるコトはもはや困難です。だったら耐久性の高いフェイクでいいぢゃん(笑)というコトにもなりかねませんね。ビトルボマセラティは本物使ってヤリ抜いてるから「出来の悪い」部分や、耐久性の無さまでも結果的に抱え込んでしまうコトにはなるのですが、だからこそ「言葉では表現できない風合い」といったオーナーのみが知る愉悦がそこに生まれます。これこそ、まさに「粋」の真骨頂といった感じです。 

 そうやって考えていくと、マセラティ各車は伝統的に「心情的手造り感」を「粋」の範疇に収まるギリギリの線で昇華させた存在に見えてきます(そうではないというご意見も世の中にあるのは承知しています)。ロールスやベントレーに「クル」ものを感じられず、モーガンにも云いようの無いモノ足りなさ、モドかしさを感じる。一方、なぜかマセラティやフェラーリには「なんだか分からないけど魅かれるし、癒される」という方はこんな感じでイタ旧車にタドりついちゃったのかな、と。ワタシ自身は英国流「ヤリすぎ」の野暮ったさも捨てがたくは思っておりますけどね。

 なんだか、ビトルボマセラティがあらためて光輝く存在に見えてまいりましたよ(喜)。まぁ、市井の単なる「浮気性なクルマ好き」であったワタシが30年近くも手元に置いて見続けてきた結果「飽くことが無い」のですから、やっぱり、ワタシ自身も毒牙(笑泣)に掛かっているのでしょうね。

 まだまだ明日も、しつこく続く予定(笑)。 

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コメント

たこちゃんの手造り感に対するアツい思いがひしひしと伝わります。
それに比べ、昨日までのワタシのコメントのなんと薄っぺらいこと。
漢字自体、間違ってたもんな。→手作り×

たしかにいろいろな手造り感の定義はありますが、やはりビトルボマセラティ
は独特のオーラを放ち、癒されますね。
唯一無二の存在です。

↑「Wさま」さん、いつもいつも本当に有難いコメントの数々を有難う(って日本語がすでにおかしくなってますが:笑)ございます。「手作り」、間違ってません。ワタシの文章ではあえて「手造り」としていますが、クリエイティビティのあるモノ作りであれば「物創り」としても良いかもしれませんね。作るはMakeのイメージ、造るはmanufactureのイメージでとそれぞれ使い分けております。ニホンゴ、難しいあるね(笑)。

「心情的手造り感」と「粋」、手づくりというとほうっておくと何か伝統民芸品的な世界も近いですが(モーガンに至る)、「手づくり」的に見えるところで「粋」をやってみせるところが味だと。
ちなみにうちのパソコンは「手づくり」と平仮名に変換されるようになってしまっています。作ると造ると創る、全部こみで。日本語は元々表音文字でみんな一緒、という理屈です。

あんまり自由にオーダーメイドさせてくれても、余程強いこだわりがなければ結局、自分じゃ何も決めれないもんです。コーディネートしてくれるヒトがいないとなかなか上手くいかないものです。だいたい、たかだか数千円のネクタイを時間意をかけて吟味してから購入しても、気に入らなくて一度も付けないでいる事も度々なので。
その点、ビトルボ系マセラティは最初からマトモな人間には思いつかないブッとんだコンセプトが素敵です。内外装、自由に選んでいいと言われても、ビトルボのような内外装の組み合わは常識人には出来ません。馬鹿馬鹿しい。でも粋でカッコいい。そこが楽しい。そこが素晴らしい。

『完成度を上げ過ぎると、かえって「手造りの味」や「温もり」といった抽象的・感覚的に捉えるしかない世界からは遠いものになっていくものです。スゴイなとは思いますが、ここまでやらんでもというコトにもなります。』
解るような気がします。 なぜか、誰がつくっても何度つくっても同じに出来る様に感じてしまうと、温もりがなくなってしまうような。

工作が完璧過ぎると「味」が無くなる、という矛盾。漆器なぞは、もはや工業製品の域では?私はプラスチックと間違えました(このあたりはいいもの見て感覚を磨かないといけないのでしょうね)。
以前、コンラン卿(コンランショップの)が日本の職人を探訪した際、指物細工に対し「すきまが無いのが(そんなに)すごいことなの?」「手づくりなら大量生産で出来ないことをやらなければ」と、日本人からしたら唖然とする発言をしていました。でもこれも一理あるかと。
この話は芸術のハナシに近くなるなぁ。

たこちゃんを信じて良かったです(喜)

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