2012年、GWにフラっとドライブ(その12:浜松のスズキ本社歴史館探訪記④)
あー、おばんです(笑)。今日の東京はとっても寒くて、一応長袖は二重に着ていったのですが、ぜんぜん太刀打ちできずに途中で一旦アパートに。「ヒートテックのズボン下、出してよー」と頼んだら、「もう仕舞っちゃった!」だって(そりゃ、そーだよねー:泣)。明日は28℃になるそうです。どーなってるの?この気候。
はじめに云っときますけど、今日も「タイヤとエンジンが付いてるヨ」というところ以外はマセラティとはまったく関係ないハナシばかりでお送りする覚悟でございますが、一応、いよいよ「四輪」のハナシにはなってまいりますのでユルしてください。では、まいりましょう・・・
歴史館の3階フロアには随所に「懐かしのテレビコマーシャル映像」を流しているモニター画面があり、コレもヒト巡りするのにそれなり長尺なので、そのすべての観賞には結構時間が掛かります。
初めにご紹介する映像は、昨日もおハナシした「スズキワークスグランプリレーサー」の世界的な活躍を自ら誇示するといった趣向のCM。
ゼッケン8番の「RM63」は、1963年のマン島TTレースで見事日本人初優勝に輝いた「伊藤光夫さん」の雄姿。画面にもあるように、このシーズンは125CC部門も、二輪世界選手権のコンストラクターズチャンピオンに輝いたのはスズキでありました。
そうかと思うと「軽自動車」の方も、一生懸命に宣伝せにゃならんので、スズキの場合にはあれこれと忙しい(笑)。
そこで「スズライトフロンテ」の製造工程をたっぷりと見せる内容の当時の企業CMがコレ。
この「スズキ歴史館」の目の前に位置する「本社高塚工場」と思しき工場の門からは、続々と待ち侘びる全国の顧客に向けて軽自動車と二輪が走り出てまいります。「VIVA!高度経済成長!!」という感じが、なんとも勢いのあるコノ画面の雰囲気からも伝わってまいりますね。
「どう考えても、やっぱりやらなきゃいかん!」というのは、スズキが自動織機メーカーから自動車メーカーへの脱皮をハカる時に社長が散々逡巡した挙句に発したコトバだそうです。
ワタシなどの凡人には、まだまだ繊維産業も盛んで工業用自動織機メーカーとしては順風満帆であったハズの昭和20年代に、「どう考えると」技術的にはまだまだ未知の自動車に賭けてみようと思えるのか、という方がよっぽど不思議なのですが(どう考えても、やっぱりわからん:笑)。
果せるかな、その後の国内繊維業界は年々凋落の一途を辿るばかりで、平成の今ではほとんど壊滅状態を呈しております。大成功をおさめるようなヒトは60年も先が見通せるのですね。
ともあれ、このブース、題して「スズライト物語」は、自動車メーカーの曙の様子を立体的な「動く実物ジオラマ」によりビビッドに再現するという、スグレ物の施設です。ヨメさんは「カジリつき」で見てましたが、ワタシは他の写真撮影に忙しくて(笑泣)、最初から終わりまでを通しでみるコトが出来ませんでした。今度行ったら、キチンと勉強してきますです、ハイ。「結構、面白かったヨ」とは「たこちゃんヨメ」の談。
スズキの場合は、昭和20年代当時に自社で四輪自動車を開発するにあたって、他の多くのメーカーがそうしたような「海外有名メーカー」との提携には走りませんでした。コレも気骨があると云うのか、自信があると云うのか、たいしたモノではあります。しかしながら、昭和も30年代半ばとなりますと、富士重工の名車「スバル360」がそれまでの「バブルカー」然とした軽自動車とはかけ離れた驚異的な品質感と高性能を引っ提げて出現し、ソレに対抗するにはより一層本格的な「軽自動車」を造り出す必要に迫られます。
で、誰が何と云おうとも「ミニ」を初めとする、アレック・イシゴニス設計のADO15系に似てしまった(笑)というところが御愛嬌のスズライト(フロンテ)であります。範としたクルマが優秀なデザインですから、このクルマも初代スズライトに比べますと数段完成度が高く見えますよね。特にマイナーチェンジを繰り返す度に、いよいよ「本家に似てきてしまう」といったデザインの変遷も面白いところです。
当時のコマーシャル映像。やっぱ、どう見てもコレは「ミニ」ではないですか(笑)。
しかしながら、コレは紛れも無く2サイクル360CCのフロンテなのであります。考えようによっちゃ、ミニのカタチのまんまで、アレよりも一層小さくなってて、それが「ぷいーん!」とか云いながら白煙モクモクと走っているさまは想像するだけでも楽しくなりますね。こうなったら、走ってるところを一度見てみたいわあ。
室内の方はさすがにセンターメーターではありませんが、本家に輪を掛けて質素なものです。
こういうクルマ見るといつも思うけど、なんとか少しでも立派に見せようという邪念が一切無いから、却って清潔感というか、ある種の潔さからくるカッチョ良さがあるというのが、ムカシの国産大衆車に共通する美点ですね。スッキリとしていてオシャレ。当時のカタログも天然色のものが多くて、オートバイのそれに比べるとやはりコストが掛かっているコトが伺い知れます。
昭和も40年代初頭には、スズキも一旦軽自動車からの脱却を目論んでいたようです。
この時代には、国産では「三菱コルト800」とか「スバル450(360のデザインのままで排気量をアップしたモノ)」など、少数ながら2サイクルエンジンの「小型自動車」が存在しておりました。この「フロンテ800」は2サイクルエンジン搭載の小粋な2ドアクーペ。このお洒落なクーペが白煙を巻きながら走るというのも、ちょっとオツなものですね。
この愛らしいお顔のクルマは「スズライト」の冠が取れた初めての「フロンテ」です。このモデルから以後しばらくの間は、それまでの「フロントエンジン・フロントドライブ」から、「フロンテ」の名前に全くそぐわない(笑)「リアエンジン・リアドライブ」のレイアウトに宗旨替えしてしまっています。この初代「RR」モデルは、俗に「コークボトルライン(コカコーラのビンのシェイプ)」と呼ばれ、現在でも愛好家から珍重されています。
そんな可愛らしいフロンテも60年代後半に巻き起こった「軽自動車馬力競争」にはいやおう無く巻き込まれて行きます。
すべての軽自動車製造メーカーは「カタログ上の最高性能」をただひたすらに競い合い、実用性には乏しい「ピーキーな」出力特性のハイチューニングエンジンを持つモデルをフラッグシップモデルとしてラインナップするようになって行きました。
このフロンテは、その高速巡航性能をプロモーションするために「ミラノ→ローマ→ナポリ」を「アウトストラーダ・デル・ソーレ(太陽の道)」というイタリアの速度無制限道路上で駆け抜け、その驚嘆すべき性能を誇示(音出ます、御注意を)いたしました。2台のフロンテを託されたドライバーは、マセラティ250Fを駆ってマセラティ社を悲願のF1コンストラクチャーズチャンピオンにつけた立役者の一人、かの「スターリング・モス」先生と、前述のマン島50CC王者である二輪の盟主「伊藤光夫」さんの豪華カップリング。
「モス」先生は、当時実際にこの「フロンテSS」を走らせてどのような感想をお持ちだったのでしょうね。
ともあれ、ボンネットに残るサインとともに、いつまでも保存して頂きたい自動車界の歴史遺産でありましょう。
フロンテの横でポーズを取る壮年期のモス先生、とてもダンディーです。
あー、ワタシも一度は「太陽の道」というのをマセラティやフェラーリで思いっきり謳歌してみたいものではありますなぁー。
それでは、また明日!
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今日は帰宅時風も強まり、寒いのなんのって。
体調崩さぬようお気をつけくださいませ。
さて4輪部門、最後のフロンテSSはリアが印象に残っています。
「ザ・おちょぼ口」。
小さなボディに現在にないデザインの力強さを感じます。
投稿: Wさま | 2012年5月22日 (火) 21時49分
スズライト(フロンテ)、ミニのようでもあり、バンパー一体整形でなんだかプラモデルのような風体でもある。
Bピラーのウィンカーがいい味を出してますなあ。
投稿: おぐ | 2012年5月22日 (火) 23時22分
あの細いタイヤで、ひょいひょい車線変更しながら高速運転するのは、ちょっとおっかない気もします。手元の本によると、アウトストラーダ750キロを6時間6分で走破した、とあります。空冷2ストの360ccとしては、あっぱれな記録だと感じますが、振動や乗り心地はどうだったんでしょうね。
投稿: 上京FMt | 2012年5月23日 (水) 03時12分
360のフロンテでアウトストラーダ激走・・・。すごい。
きっとアクセルなんて床まで踏みっぱでしょうねぇ。
もし同じような運転したら、分解しそうな気分になるでしょうね。
一瞬出てくる地図に、フィレン「ツェ」ではなくフィレン「チェ」って書いてあるのが、
妙に時代を感じさせます(笑)
投稿: まおぴー | 2012年5月23日 (水) 12時45分